明治時代の作家が云ったのでございます。
自分自身は、源氏の系譜として裕福な生活を送るよりも平氏の系譜として滅びる方を選択します。
私自身は、平氏の系譜の人として滅びるよりも源氏の系譜の人として栄える方を選択すると思います。
平家物語に流れている思想は、如何に栄えた家でも長くは繁栄する事は出来ない。
源氏も源頼朝が、鎌倉幕府を創設しましたが結局は源氏系統の征夷大将軍は3代で倒産したのでございます。
世の中の滅びの哲理を解き、如何にときめいた家でも長くは続く事は難しいと平家物語は云っているのでございます。
我が先祖も、九州肥前国の地頭職を拝命して一族郎党は其れなりに繁盛していました。
ところが戦国時代に突入して、20年位九州地区の一角を占めるほどの勢いをみせました。
しかし結局は地頭職クラスの家柄であり、守護職から戦国大名クラスに鞍替えした島津家や大友家などとは所詮違いが歴然と存在したのでございます。
最終的には我が先祖は、島津家と有馬家の連合軍に敗北して家臣筋鍋島弾正忠家の専らの力により佐賀まではうはう逃げ帰る事が出来たのでございます。
その後には我が先祖の一門衆は存在したのでありますが家臣筋の鍋島弾正忠家の意見が採用されていたのでございます。
そして我が一門衆の惣領家は、一様は肥前国35万石の国主に指名されたのでございます。
しかし佐賀には、鍋島弾正忠家の人々が我が物顔で居座りまるで国主のような振舞いをしていたのでございます。
そして徳川幕府の面前で毒物を服用して、鍋島弾正忠家から嫁いでいた嫁を刺し殺してしまったのでございます。
私自身ならば、鍋島弾正忠家から嫁いだ嫁でも大切にするのですが?
そして毒物を飲んでも死に切れずに、後々に馬から落ちて死んてしまったのでございます。
江戸時代の武士階級の死に方は、切腹する事が常識でございます。
其れが服毒自殺とは、武士階級の死に方としては有り得ないやり方だったのでございます。
この遺伝子を受け継いだ私自身でございますから、ムカデ殿が怖くて怖くて仕方が無いのかもしれません。
また服毒自殺した我が先祖の惣領家は、会津若松藩の保科正之の元に預けられました。
保科正之は、我が先祖を千石以上の客将としてもてなしたのでございます。