武藤少弐職の事

武藤と云う鎌倉御家人が九州地区にいました。


この武藤氏は、鎌倉幕府から筑前国!筑後国!肥前国!壱岐国!対馬国の5カ国の守護職に任命されたのでございます。



また鎌倉幕府守護職を拝命しながら、朝廷の出先機関である太宰府の少弐職も拝命していたのでございます。



詰まりは鎌倉幕府御家人を拝命し、またまた朝廷からも太宰府の地方長官も指名されていると云う異色の人物でございます。



太宰府の役職には、太宰府の大弐職が生え抜きの貴族の中から選抜されます。



しかし太宰府の大弐職は、九州に赴任する事は無く代理人として太宰府の少弐職が九州に赴任して行政事務を司ります。



武藤氏は、平将門を討伐した勲功によりて貴族に取立てられた人物でございます。



朝廷では、強い平将門を討伐した後には武士階級の家🏠の人でも貴族階級に取立てる事を契約書に明記したのでございます。



此れに応募して来た人物が、下野国の大豪族である藤原秀郷でございました。


藤原秀郷も、一様は藤原不比等の子孫ではございます。



しかし藤原南家の出身であり、京都では官職に有り付く事が出来ずに関東地区の地方長官の身分で過ごしていたのでございます。




そして今回の朝廷からの誘いの文章を目にして貴族階級に鞍替えするチャンスと捕らえて1万の軍勢を整えて平将門の軍勢に備えたのでございます。



平将門の軍勢は強かった。


しかし藤原秀郷の軍勢も、坂東武者でございます。



平将門軍が疲れた事を付いて、一気にに軍勢を動かしたのでございます。



そして藤原秀郷の軍勢は、運命にも救われて平将門の軍勢を打ち破ったのでございます。



この藤原秀郷の子孫が、武藤家でございます。



藤原秀郷嫡流家の人々は、関東地区の地主として藤の花が蔦に絡み合うように一族が繁盛して行きました。



一方四位の官職に就任した一族の人々は、京都にも館を構えて貴族階級としても繁盛したのでございます。



その中で武藤家は、太宰府の地方長官として代々世襲していました。



この武藤家は、源平合戦の最中に源頼朝に対して名刺を配り貴族階級でありながら武家政権に参画を表明したのでございます。



そして源頼朝が勝利して、人材不足に陥っていた鎌倉幕府は武藤家を破格の待遇で鎌倉御家人として迎え入れたのでございます。



しかし朝廷でも、太宰府の地方長官を世襲していた武藤家は逸材であり武藤家に替わる家はなかったのでございます。



そこで朝廷からの命令として、鎌倉御家人太宰府の地方長官の兼務する事の沙汰が言い渡されたのでございます。