家系図造りに精を励む事

私自身は、肥前国佐賀郡の領地を源頼朝公から頂き鎌倉幕府からは地頭職に任命された人の子孫でごさいます。


一様は家系図は、我が家の家宝として存在しています。


しかし私自身は、次男坊であり武家の仕来り上長男に家系図などは引き継がれるのでごさいます。



そこで我が家の長男に頼み込んで、家宝の家系図を借り受けてせっせと家系図を製図している最中でごさいます。



家系図からは、我が家の始まりは藤原鎌足から始まっています。



私自身としては、源氏か平氏家系図が良いと思うのでごさいます。



藤原鎌足から藤原不比等に繋がり、途中は藤原秀郷に枝別れして藤原隆家と云う人物に繋がっていました。


藤原隆家は、太宰府の役人として京都から九州に赴任していました。



この藤原隆家の時に、源頼朝が平家打倒に立ち上がり等々流人生活から抜け出して鎌倉幕府を開いたのでごさいます。



藤原隆家は、役人生活に嫌気がさしていたので武家に転じて源平合戦に参加したのでございます。



そして何とか源頼朝の勝利に貢献して、鎌倉幕府御家人に推薦状を提出して地頭職に任命されたのでございます。



この藤原隆家が、肥前国佐賀郡に地頭職として赴任する最中に寺で休息したのでございます。



何と寺は天台宗であり、龍造寺と云う寺でありました。



藤原隆家は、京都は天台宗門徒であり比叡山延暦寺では通夜を毎回行っていました。



そこで藤原隆家は、藤原を龍造寺に変更したのでございます。



肥前国佐賀郡内は、ほとんどが天台宗龍造寺の檀家でありました。



肥前国佐賀郡内の人々は、家の宗派は天台宗龍造寺であり地頭職は龍造寺家と云うのはめでたい事として喜んだ。



龍造寺家は、天台宗龍造寺を存分に利用して領民の心持ちを鷲掴みにしたのでございます。



この系図を作成する途中で、やはり源氏の系図に心を奪われたのでございます。



そこで藤原隆家が、源義家の姫君を妻にした事にして私自身の系図は源氏の系統の家系図に生まれ変わったのでございます。