その御家人の不満は、当然のように鎌倉幕府の執権職北条家の一門衆に向けられる。
特に外様大名たちの不満は、沸騰寸前であり頂点に達していた。
河内国の鎌倉幕府の御家人である楠正成は、鎌倉幕府の地頭職に任命されてはいましたが生活苦に悩まされていたのでございます。
そこで楠正成は、副業的に各地から集まる商品を運搬する事を業務としていました。
楠正成の副業は、本業である鎌倉幕府の地頭職の何倍もの収益を稼ぎ出していた。
そこで楠正成は、荷役業務の組合を作り出し近隣の鎌倉幕府御家人と共に運輸業を営んでいた
北条家は、楠正成たちの組合に対して税金を払うように圧力をかけたのでございます。
当然の事でございます。
楠正成たちは、団結して武力行使で鎌倉幕府の北条家に対抗した。
北条家では、楠正成たちの反抗的な態度に対して生意気であるとして大軍を河内国に派遣したのでございます。
そこで派遣した軍勢の総大将に、源氏の嫡流家足利尊氏を任命したのでございます。
そして総大将足利尊氏の軍勢には、何と鎌倉幕府の外様大名が数多任命されていた。
総大将足利尊氏は考えた。
我が軍勢は、五万の坂東武者が総揃えしているではないか?
此れは鎌倉幕府の北条家を討伐する好機ではないかと思っていた。
そこで足利尊氏に付き従っていた坂東武者に向かって云ったのでございます。
皆々様、我が軍勢は楠正成殿では無く京都の六波羅探題を攻め滅ぼすと云った。