島津義弘に打ち負けた我が先祖

島津家と云えば、源頼朝公の落とし種でございます。


源頼朝は、妻北条政子に内緒で漁師の娘と恋仲になったのでございます。



当然の事でございます。



源頼朝も三八歳と云う働き盛りの男であり漁師の娘は18歳の乙女でございます。



二人は結ばれて、一人の息子が産まれました。



しかし北条政子と云う源頼朝でも、恐ろしい女子がいました。



北条政子も、薄々源頼朝が浮気している事に気付いていました。


そこで北条政子の付き人に対して、漁師の娘と息子の居場所を探し出すように命令したのでございます。



源頼朝は、家臣筋から北条政子の怨みを晴らすべき計画を策略中である事を聴き付けたのでございます。



そこで重臣たちを招集して、北条政子の策略に対する対策会議を開きました。



そして日本国の最南端の国の守護職に指名された島津家が良い案を呈示しました。



その提案書は、薩摩国大隅国のニカ国の守護職に指名された島津家が、源頼朝と漁師の娘を自分自身の息子として育て上げると云う案でございます。



嫉妬深い北条政子でも、坂東育ちであり西の外れの薩摩国大隅国までは追いかけては来ないだろうと予想したのでございます。



北条政子も、苦々しくは想いましたが薩摩国までは追いかける事は出来ませんでした。



この源頼朝の落とし種の島津義弘に、我が先祖は打ち負けたのでございます。



我が先祖は、島津家に負けて以降は憂き目を見る事は出来ない家になってしまいました。



恨めしや恨めしやでございます。