氏姓

日本国には、大きく分けて貴族と民人(大御宝)に分ける事が出来ます。


また貴族も庶民も含めて、雲の上人と地下人に分ける事が出来ます。


日本国は、農業国家であり土地に対する執着心が非常に強い国民性がございます。



特に開発領主である地主である武士階級は、非常に領地に対する執着心が強かったのでございます。


特に坂東武者の面々は、開発領主がほとんどであり、地境問題で争いが生じると近隣の武士団同士で党と云う組織を形成して集団指導体制で対応したのでございます。


東武者の党として、武蔵七党が有名でございます。



その他には坂東武者で血筋が良くて大大名の傘下に入る事により、他の集団の圧迫に対抗する方策を取りました。



秩父氏や三浦介や伊東や上総介や千葉介などは坂東武者としては大大名でございます。



そこで大名の近隣の地主は、大大名の傘下に入る事により集団で他家の侵略に備えたのでございます。


あの源氏と平氏の合戦では、坂東武者の合戦ぶりは真にドライであり親類縁者や家臣筋が平氏の武者に首を取られようとしている時にも助ける事は無く敵の大将に襲いかかるのでございます。



一方西国の武者は、親類縁者や家臣筋が殺られそうな時には助けに入る事が風俗でありました


だから西国の武者と坂東武者が一騎討ちすればやはり西国の武者も坂東武者も互角の合戦をしたのでございます。



いゃ西国の武者が、一騎討ちならば強い武士もいました。



しかし坂東武者は、武蔵七党や坂東の大大名の傘下に入る合戦スタイルが確立していたために集団戦法が得意分野であり集団リンチを得意分野にしていたのでございます。



そして坂東武者は、死ぬ時にも土地に対する執念は半端ない気持ちで合戦に参加していたのでございます。



ある坂東武者は、強い平氏の武者に首を斬られようとしていた時に源頼朝の命令で手柄を記録する武士に対して自分自身が死んて倒れる場所を墓場として登録済みにして貰いたいと叫んで死んていったのでございます。



源頼朝から記録係として派遣された武者も、坂東武者の気持ちは痛いほど理解出来るのでございます。



そこで死んだ坂東武者の言い分は記録されて、後々には死んでいった坂東武者の子供たちが父親の墓場として土地を頂く事になる。



しかし土地は頂く事が出来たが、余りにも遠く離れてたいた上に小さな領地だったために後々は管理するのが負担になってしまいました。