今は我が先祖の家系図を纏めています。
我が先祖の家系図は、何と藤原鎌足から藤原不比等に至り藤原秀郷に繋がっているのでございます。
私自身は、藤原氏では無く武家の棟梁に繋がる源氏か平氏が良かったのでございます。
しかし歌人で有名な西行法師の孫が、我が先祖の婿養子に入っているのでございます。
西行法師と云うと北面の武士の家柄であり、佐藤義清と云う名前の武将でございます。
あの平清盛も、若い頃は北面の武士として院に奉職していました。
また平清盛と佐藤義清は、北面の武士の時には同僚であり同じ詰所で一緒に待機して同じ給食を味わっていた仲間でございます。
平清盛は、顔立ちもイマイチであり女子からは余り好かれる男ではございませんでした。
ところが佐藤義清は、和歌にも秀で顔立ちも良く貴族の姫君からも数多のラブレター💌を貰うモテる男でございます。
この佐藤義清が先祖でありながら、私自身は彼女いない歴史が三十年以上でございます。
本来的には、我が先祖は女子にモテる事がなかった平清盛の子孫ではないのかと思うのでございます。
家系図と云うのは、偽系図も数多存在し戦国武将のほとんどが偽系図作成に心血を注いでいたのでございます。
あの織田上総介信長の家柄も、足利将軍家の親類縁者斯波家の守護代の傍系の傍系の家柄でしかありませんでした。
そこで織田上総介信長は、摂政関白殿下に賄賂を贈り付けて右大臣兼左大将の官職を朝廷から拝命したのでございます。
しかし織田上総介信長の性格から、朝廷に奉職する事に馴染めずに官職を返上したのでございます。
また百姓出身の豊臣秀吉は、生え抜きの貴族摂政関白殿下の婿養子となり関白殿下を拝命したのでございます。
豊臣秀吉は、本来的には武家の棟梁である征夷大将軍に任ぜられたかったのでございます。
そして徳川家康は、足利将軍家の親類縁者吉良家の一門衆を家臣筋に組み入れていました。
吉良家の一門衆は、軍事貴族の一門衆であり朝廷の有職故実に精通していたのでございます。
吉良家の一門衆は、源氏系統であり源氏の一門衆の系図は総て把握していました。
そこで新田入道家の一門衆の中で、得川家の一門衆の系図が男の子の子供が産まれてなかったので系統が途絶えていたのでございます。
そこで主人筋である徳川家康に対して、偽系図を作成してまんまと徳川家康を源氏系統の一門衆として朝廷に提出したのでございます。
朝廷では、徳川家康が果たして源氏系統であるか一様は審査をしました。
しかし何せ、政治を動かしていた摂政関白殿下の采配により徳川家康を源氏の系統として認定したのでございます。