坂東武者の槍の味、とくと味あわれよ

東武者と云うと、あの平将門の時から京都や西国の武士たちから恐れられていたのでございます。


東武者の合戦のやり方は、真にドライでございます。


東武者は、親や兄弟や家臣筋が敵将に首を斬り落とされようとしているのに助かる事も無く相手方の首を斬る。



一方畿内や西国の武士団は、仲間意識が高く親や兄弟や家臣筋が首を斬られるような場面に遭遇すれば確実に助けに入る。



だから西国の武士からすれば、坂東武者は野蛮であり人の心を持ち合わせない獰猛な武士だと恐れられていた。



また現在の三重県和歌山県に跨がる熊野地域にも、獰猛な武士がいると恐れられた。



坂東は、現在の関東地方であり京都から遠く離れていた。


そこで武士団たちの領地争いが起きて、京都の公卿集団に裁判を申し立てても粗野に扱われた。



だから自ら武装化して領地争いが起きれば、武力を持ち合わせ守り抜く風土が芽生えたのでございます。



平将門以降も坂東武者の傾向は変わる事も無く獰猛な武士団が数多存在するとして恐れられていた。


あの平清盛の先祖も、元々は坂東武者でございました。



ところが源氏の勢力が坂東に数多進出して来たために、平家一門衆は伊勢国伊賀国に逃げ込んだのでございます。



しかし平家一門衆の中でも、坂東武者として先祖の領地を守り抜いた武将が数多存在したのでございます。


あの千葉介や上総介や三浦介や秩父氏などは、皆平氏の系譜の一族でございます。



そして豊臣秀吉が、小田原北条氏を討伐するために二十万の軍勢を進めたのでございます。



豊臣秀吉は、関東各地に広がる小田原北条家のネットワークを潰しに掛かりました。


あの石田三成を総大将とする大軍は、現在の忍城を攻め込む事になったのでございます。



忍城を守っていたのは名門成田長親と云う武将でございます。



しかし成田長親は、坂東武者らしく無く合戦には消極的であリました。


ところが成田長親の家臣団は、坂東武者の中でも特に勇猛果敢な武将が揃っていたのでございます。



そして石田三成を総大将に、長束正家大谷吉継忍城に乗り込んで来たのでございます。



その中で長束正家は、早く降伏した方が良いぞわしらは忙しいのだ。



このような田舎城に手間取る訳にはいかないのだと横暴な態度で言った。


この長束正家と云う人物は、弱い者には強く出て強い者には弱く出る人物だと知らない者はいなかった。



すると成田長親は云った。



先程までは降伏すると考えていましたが、長束正家殿の横暴な態度に接して考え方が代わりましたと云った。



そして成田長親は、坂東武者の槍の味をとくと味あわれよと云った。



成田長親の家臣団は、戦争をやりたくてムズムズしていたのでございます。



しかし総大将成田長親が、大の戦争嫌いで有名だってた。


だから合戦は無いだろうとがっかりしていた矢先の成田長親の発言だった。



そして石田三成五万の軍勢に対して、忍城を守り抜く軍勢は3百騎でございます。



ところが主君筋の小田原北条家が、豊臣秀吉の軍勢に降伏した後にも忍城の猛将たちは一歩も引く事も無く合戦を継続していたのでございます。



忍城の成田長親は、小田原北条家のネットワークの中の城で唯一豊臣秀吉の軍勢に降伏する事も無く城を守り抜いたのでございます。