御家人の中の御家人

鎌倉幕府の要職に指名されていた安達泰盛と云う武士がいたのでございます。


この安達泰盛の先祖は、流人生活者源頼朝に付き従っていた側近の中の側近でございます。


源氏の嫡流源頼朝が、関東に流罪になった時に源氏の家臣筋は潮が引くように平家に靡いたのでございます。


その中で安達家と佐々木家と比企家だけが、流人源頼朝に付き従った数少ない家臣筋でございます。


尾張国知多半島を領地に持つ長田一族は、源頼朝の父親が平家に敗れて鎌倉の地を目指していた時に何と風呂場で騙し討ちをして源義朝一行を暗殺したのでございます。



この長田一族は、源義朝鎌倉幕府を開いた際に皆殺しの憂き目にあったのでございます。



安達家は、源義朝に信頼度が高いために子孫たちは皆が要職に指名されました。



そして大陸から元が日本国に攻め込んで来た時の、日本国総大将が執筆職北条時宗でございます。


この北条時宗の妻は、安達泰盛の妹であり如何に安達家が鎌倉幕府で高い地位を占めていたかが判ります。



そして肥後国御家人竹崎李重と云う武士が活躍するのでございます。



竹崎李重は、鎌倉幕府御家人ではありましたが領地は無くなり何ばかりの御家人であリました。


そこで今回の異人との合戦で手柄を立てて、鎌倉幕府から新しく領地を頂く予定で肥後国を出発したのでございます。


そして主従四人で、元の軍勢の中に突入したのでございます。



所謂先駆けでございます。



何万人の軍勢の中に、たった四人で突入するのでございます。


命懸けの突入をする事で、鎌倉幕府の要職の人に自分自身の働きをアピールする絶好の機会であると考えたのでございます。



しかし異国人との合戦であり、日本国の領地が増加したわけでもありません。



そこで鎌倉幕府の偉い武将は、恩賞を与える事も無く黙りを通したのでございます。



竹崎李重は決心を固めました。


その決心とは、肥後国から鎌倉に行き直談判を決行する事でございます。



竹崎李重は、親類縁者から借金をして鎌倉に旅立ちました。


竹崎李重の一族は、肥後国の名門菊池家出身ではあリましたが菊池家の傍系であり鎌倉御家人は無視をしたのでございます。


また竹崎李家は、九州弁しか話す事が出来ず鎌倉御家人のほとんどの武士は相手をしなかったのでございます。



その中で安達泰盛だけは、同じ鎌倉御家人として扱い竹崎李重の新しい領地は全責任を持って執筆職殿に伝えると約束したのでございます。



そして肥後国小国町に新しく領地を頂く事が出来たのでございます。