武家最後の仇討事件

武家の仇討事件と云えば、鎌倉時代蘇我兄弟の仇討事件が有名でございます。


また江戸時代の仇討事件と云えば、赤穂浪士江戸幕府重臣吉良上野介を討ち取った事件が有名でございます。


蘇我兄弟の仇討事件は、父親が同じ一族である工藤佑親に斬殺された事件でございます。


この工藤佑親は、鎌倉将軍源右大将頼朝の側近に入り込み後家人の中でも見分不相応な出世をした武士でございます。


この工藤佑親を暗殺しようと、生涯に渡り付け狙う蘇我兄弟がいました。


あの北条高政と蘇我兄弟は親戚筋の関係者であり、源右大将頼朝に内緒で北条家は蘇我兄弟に金銭的な援助をして仇討事件を助けたのでございます。


そして源右大将頼朝が、富士山山麓で大規模な狩りを主催したのでございます。


この一大イベント🎪である狩り場には、全国各地の鎌倉幕府の後家人が参加したのでございます。


工藤佑親は、源右大将頼朝に過分な待遇を受けていたために他の後家人たちから嫌われていました。


そこで蘇我兄弟は、富士山山麓の狩り場で源右大将頼朝に邪魔される事も無く見事に親の仇討をやり遂げたのでございます。



また江戸時代には赤穂藩浅野内匠頭が、朝廷に対する接待役員を命じられたのでございます。


この時の指南役員が、あの足利一族であり朝廷の行事に精通していた吉良上野介でございます。


浅野内匠頭は、田舎武者でありケチでございました。


そこで吉良上野介に対する賄賂が少な過ぎたのでございます。


賄賂が少な過ぎた事に遺恨を抱いた吉良上野介は、浅野内匠頭に対して様々な嫌がらせをしたのでございます。


嫌がらせに耐えかねた浅野内匠頭は、江戸城吉良上野介に斬り殺そうとしたのでございます。


この事件の処理は、浅野内匠頭切腹になり吉良上野介は何と領地の加増処理が下されました。


そして江戸時代最後の仇討事件は、九州筑前国秋月藩で起きました。


秋月藩の家老同士の権力争いが発端となり亘理と云う家老が斬殺されたのでございます。


家老亘理の息子は、仇討ちのために江戸に出奔した仇を求めて旅立ちました。


ところが江戸時代から明治時代になり、武家政権の特権が剥奪されたのでございます


この武家の特権には、仇討がありました。


仇討で人殺しをしても名誉にこそなれ、罪には問われませんでした。


ところが明治維新では、仇討禁止🈲令が出て仇討も罪に問われる事になったのでございます。


しかし亘理の息子は、遂に父親の仇討を見事に果たしたのでございます。



我が先祖も、鍋島弾正から家を奪取された時に仇討事件を起こして肥前国三十五万石を奪取すれば良かったのではないかと後悔しています。


奪取事件を起こして成功していたならば、今頃は肥前国三十五万石の大主の親類縁者の子孫として日本🏯国を先達する家柄の師弟とした人生を歩む事が出来たかもしれませぬ。