源義朝は朝廷の馬の監理人の隊長

鎌倉幕府を創設した源頼朝の父親は、朝廷から右馬守の官職を拝命していました。


朝廷では名馬も飼育していました。


また相撲取りも朝廷から官職を頂き、天皇陛下が観覧する相撲行事も行われました。


また名馬での競走も行われて、特に相撲行事も競馬行事も共に好きだった天皇陛下が源家の先祖清和天皇陛下でございます。


清和天皇陛下は、競馬行事や相撲行事が好きで好きでたまりませんでした。


しかし天皇陛下の職務も、熱心に行い公卿や寺社からも絶大な信用を与えられていました。


その清和天皇陛下の親王殿下が、源家の姓を賜り臣下の身になって地方長官である国司として赴任されました。


朝廷でも官職の空席が不足して、天皇家だけではなく摂政関白家や他の生え抜きの貴族の子弟も官職の空席待ちが続いていました。


そして源家の姓を頂き、摂津守として赴任されました。


その源家は、摂津国の多田荘に数多の領地を所有していたので多田満仲と云われていた。


そこで源家の事を多田源家🏠とも云っていた。



しかし源家は、武勇には優れてはいたが政治的なセンスに欠ける傾向がありました。


だから官職も進まず朝廷の馬屋の隊長を拝命していました。


朝廷の警備隊長としては、蔵人頭と云う公卿が任命される官職が最高の名誉会長でした。