赤松円心

鎌倉幕府15代執権職北条相模守高時は、武家の棟梁としての自覚が薄くもっぱら政治は北条家執事職長崎家一門衆に丸投げしていた。


自らは闘犬が大好きであり、京都から貴族を招いて公卿集団風の遊びをエンジョイしていた。


武家同士の領地争いがあっても、執事職長崎家一門衆に丸投げしていたために喧嘩両成敗と云う何とも奇妙な判決文を出して長崎家自らの領地に組み入れていた。


領地争いを鎌倉幕府に訴えた武家は、原告も被告も共に領地を失う破目に陥り北条家に対する恨みは頂点に達する事になった。


この北条家の不条理な判決文は、朝廷や公卿集団に対しても同じであり京都に勢力を張る寺社や公卿集団からも恨みを買う事になった。


そこで時の天子様である後醍醐天皇は、寺社や公卿集団や北条家に対して反感を抱いていた武家を誘い鎌倉幕府打倒の命令書を発行した。


鎌倉幕府の執権職北条高時は、早速に執事職長崎家一門衆に命令した。


命令した内容は、後醍醐天皇は畏れ多いが近臣の公卿集団や寺社勢力の一掃を指示した。


北条家執事職長崎家一門衆は、自ら総大将として京都に攻め登る事もなく何と外様大名の筆頭御家人である足利尊氏鎌倉幕府の総大将に任命してしまった。



北条家一門衆の中でも、武勇に優れた人々は執事職長崎家一門衆の沙汰には多いに不満が残る事になった。


しかし北条家の中でも執権職北条高時が任命した長崎家一門衆の沙汰である。


どんなに北条家一門衆の一部の武将が騒いでも執事職長崎家の沙汰が覆す事はなかった。



足利尊氏は、鎌倉御家人のほとんどの武将を引き連れて京都に出陣した。



足利尊氏が出陣した後で、北条家一門衆と執事職長崎家一門衆が会議を開催した。


その席上である人が一言つぶやいた。



皆々様、此処に鎮座している武将は皆平家一門衆でございます。


一方足利尊氏が引き連れている武将は、ほとんどが源氏でありますぞと云った。


此れを聴いた執権職北条高時は云った。


足利尊氏を総大将に指名した事は、我々北条家一門衆にとり失敗ではなかったかと長崎円喜に尋ねた。



長崎円喜も失敗したと想い、会議室から逃げ出してしまった。


そして足利尊氏は、自分自身の領地であり足利家一門衆吉良家が守護職を拝命している三河国から5万騎の武将を従えて鎌倉を攻め滅ぼしてしまった。


赤松円心は、播磨国守護職大名でありながら足利尊氏の陣に参加していた。


ところが京都の後醍醐天皇は、畿内地域の武家は京都に参加するように命令していた。



しかし赤松円心は、畿内地域の武将でありながら関東地方の武将足利尊氏の陣に参加していた



鎌倉幕府が倒産した後々に、後醍醐天皇赤松円心の働きを認める事もなく播磨国守護職を解任して地頭職に格下げした。


赤松円心は、この沙汰以後朝廷を憎むようになった。



地頭職も一様は、播磨国の地域ではあったが元々の赤松円心の家臣筋の武将が播磨国守護職に指名された。


この出来事以後は、赤松円心は山奥に籠もり一切朝廷の意向を受け入れる事はなかった。



そして後々に足利尊氏が、武家を束ねて朝廷と合戦する事になった時に赤松円心は借金をしてまで1万人の軍勢を掻き集めて足利尊氏の陣に馳せ参じた。


そして足利尊氏の勝利により、赤松円心播磨国に加えて備前国備後国の3ヶ国の守護職に指名された。


また室町幕府管領職の下の機関である四職の1家に加えられた。


管領職も四職も、共に足利家一門衆でなければ基本的には任命される事はない。


赤松円心は、足利尊氏からの信頼性が厚く足利家一門衆として処遇されていた。