我が国日本では、鎌倉幕府によって源頼朝が武家政権を打ち立てました。
また平清盛が、貴族中心の政治体制の中で番犬的な存在だった武士出身である清盛が大政大臣従一位と云う生え抜きの貴族を抑え込んで政治の実権を掌握したのでございます。
しかし平清盛の政治体制は、純粋な武家政権ではなく武家が貴族中心の政治に入り込む事によって政治活動を掌握する事に主眼を置いてしまった。
各地に地盤を持つ武家は、武家政権である平清盛の武家政権に期待していた。
ところが武家の要望書を解決方法を呈示する事はなく、平家一門衆事態が貴族化して武家政権の立場を蔑ろにしてしまった。
結果平家一門衆は、各地の武家たちに見捨てられてしまいました。
一方武家社会での実力者である源氏は、平家一門衆との合戦に敗れて源頼朝が伊豆国に流し者の立場となっていました。
各地の武家が期待していた平家一門衆ではあったが、期待は外れて貴族政治の代理人となっていた。
そして源頼朝を大将に担いで、平家一門衆に合戦を仕掛けた。
その結果、平家一門衆は長門国壇ノ浦の戦いで海の藻屑となった。
そして源頼朝が、武家政権を打ち立てて本格的な武家政権を打ち立てました。
特に武家の関心事である土地の権利関係に対しては、朝廷から独立して鎌倉幕府の機関により権利関係を取り決める事に成功した。
この平家と源家の合戦を琵琶法師が全国を歩いて語り継がれた。
また鎌倉幕府の武家政権も、ナンバー2である執権職北条氏の横暴政治が頂点に達した。
この北条氏に意見を述べたのが筆頭御家人である足利尊氏だった。