足利尊氏の先祖は、源氏の氏の長者の家柄でありながら平清盛により流し者の身分に陥っていた。
そこで源頼朝が流罪に陥っていても、経済的な援助行動を行っていた。
一方同じ足利家一門衆でありながら、新田入道は源頼朝に対抗意識が強く源頼朝の下で働く事を潔いと思わなかった。
源頼朝が、妻北条政子の実家である北条時政の軍勢を用いて平家一門衆に合戦を仕掛た時に足利家一門衆は直ぐに源頼朝の陣に馳せ参じた。
ところが新田入道の軍勢は、源頼朝が催促しても一行に陣に馳せ参じる事はなかった。
源頼朝の平家一門衆に対する謀反が成功した後々には、足利家一門衆は源頼朝の親類縁者の扱いであった。
一方新田入道の一門衆は、源氏系統でありながら一御家人の一人としての扱いであった。
また足利家一門衆は、数カ国の守護職に指名された。
一方新田入道の一門衆は、一地頭職に指名されるに至った。
守護職と云うと現在の県知事と同じ扱いであり警察権や税金の徴収権力を兼ね備えていた。
一方地頭職は、現在の市町村長レベルであり警察権力も税金の徴収権力も限定的であった。
鎌倉時代を通じて足利家一門衆は、御家人の筆頭各の家柄を維持していた。
一方新田入道の一門衆は、鎌倉御家人からは貧乏御家人と罵られていた。