その国難とは、ユウラシア大陸のほとんどを支配下に治めたモンゴル帝国が日本国に攻め込んで来た事でございます。
この国難に毅然とした態度で対応した人物が、若干18歳で鎌足幕府執権職に就任した相模守従5位下北条時宗でございます。
武家と云う者は、先祖伝来の領地を守るためには命懸けで闘う生き物でございます。
その合戦に備えでは、狩や弓矢の稽古に勤しむ事が仕事でございます。
また武家は、地主であり農業従事者でもございます。
私の先祖も武家であり農業従事者でもございます。
農業従事者は、鍬を持ち田畑を耕し農産物を収穫する。
また農作業の合間には、猪や兎などの狩をして体力を鍛える事に専念していた。
私もやはり武家の血が騒ぎます。
農作業と狩を無性に行いたい衝動にかられます
北条時宗も、鎌足幕府執権職と云う最高責任者でありながら日々農作業と狩を行い体力を鍛え上げていたのでございます。
北条時宗は、モンゴル帝国の申込みを一切拒否して日本全国の武家集団に対して臨戦態勢を敷くように命令した。
日本国の武家集団は、合戦が出来ると涙💧を流して喜んだ。
その理由は竹崎季長は、鎌足幕府の地頭職であり御家人の身分ではあったが領地も何もない御家人であった。
先祖伝来の遺産相続の結果、一族郎党に分け与える領地が一切無くなっていたのだった。
そこで合戦で手柄を立てる事により、鎌足殿から新しく領地を頂く事が出来ると考えた。
竹崎季長は、親類縁者や近隣の御家人仲間達から莫大な借金をして家来を4人雇用した。
そして肥後国から武家集団が陣を敷いている博多湾に馳せ参じた。
平何某は、あの平清盛系統の一族であり合戦上手で知られていた。
しかし80騎馬程の軍勢で、何万の軍勢と合戦するのでございます。
でも平何某達は、80騎馬程の軍勢で2日間対馬にモンゴル帝国の軍勢を足止めした。
その間博多湾の陣形を整える事が出来た。
しかし平何某達は、皆が戦死してしまった。
そんな時竹崎季長は、4騎馬の家臣達と5人でモ帝国の軍勢に突入した。
しかし多勢に無勢である。竹崎季長の軍勢は良く闘ったが討ち取られる寸前だった。
すると肥前国の武家集団で経済的に余裕がある白石右右衛門と云う武士が百騎馬程でモンゴル帝国の軍勢に突入した。
モンゴル帝国の軍勢も不意討ちに合い、一瞬軍勢を引いた。
この白石右右衛門の活躍により、竹崎季長は命拾いをした。
其れから日本国の武士団の反撃が開始された。
日本国の武士団は、夜討が得意分野である。
夜中に小舟でモンゴル帝国の船に乗り移り、相手を斬り殺して来るのでした。
日本国の武士団は、一対一の合戦は得意分野であり集団戦法が得意分野であるモンゴル帝国の軍勢は船⛵の上を逃げ回るだけであった。
そして日本国の武士団は、あの大帝国の軍勢を日本国から追い出す事に成功した。
ところが竹崎季長は、鎌足幕府からの領地を与えると云う知らせが何日待てど来ない。
しかし竹崎季長は、九州の田舎暮らしの御家人であり鎌足の御家人達は誰も相手にしてくれなかった。
其れも九州肥後熊本弁で膜仕立てるので、余計に毛嫌いされてしまった。
そこで鎌足幕府で領地の差配の責任者で大大名であり、御家人の筆頭各安達泰盛に直談判と云う強硬手段に出た。
すると以外にも安達泰盛は、九州弁で膜仕立てる竹崎季長の話を良く聴いてくれた。
そして竹崎季長に対しても、相手を尊重した態度で接してくれた。
同じ鎌足幕府に奉祀する外様御家人として、領地の恩賞の事は安達泰盛に一任して下さいと丁重に云われた。
この大将の為ならば、我が命は欲しくないぞ。
安達泰盛殿のいち大事には、真っ先に馳せ参じて盾にでも矛にでもなれると思った。