平安時代の末期に、全国各地で自然災害や地域の武士団たちが続々と合戦を始めました
宮の公卿たちは、或るお経に書いてある文書の事を考えていました。
佛教の教えが廃れて、世の中に兵乱が続々と発生する。
その後に弥勒菩薩が現れて、乱れた世の中に佛教を浸透させる。
しかし弥勒菩薩が現れるまでは、五十6億6千万年の年月が必要であると書いてあった
公卿たちは、自分自身が徳を積めば弥勒菩薩が早く現れるかもしれないと想い神社仏閣に寄附をした。
そして公卿たちは、毎日毎日神社仏閣に通夜して過ごした
現在は通夜と云えば、葬式に関連する言葉として使われています。
しかし平安時代には、通夜とは神社仏閣で夜通しお籠もりをする事でした。
お籠もりをすると云っても誰もが出来るわけではありません。
出来る人は、生え抜きの貴族たちだけが出来たのです。
貴族たちの仕事は、和歌を詠んだり宗教書を詠んだりと勉強する事が仕事でした。
でも一般的庶民は、神社仏閣で夜通しお籠もりをする事は出来ません。
だから庶民は地獄行きが確定していると考えられていました。
また貴族の中でも生え抜きの公卿たちはお籠もりが出来る
しかし並の家柄の公卿たちはお籠もりは夢のまた夢の世界でありました。
貴族たちは、一年中行事に追われていた。
この一年中の行事のために衣服も仕来りに沿った衣替えが必要だった。
しかし並の家柄の貴族たちは官職の空席がないので任官出来ない。
だから無収入となる貴族が続出していた。
この公卿たちの状況も、末法思想を加速させていた。
末法思想は誠に恐ろしい事だった。
南無阿弥陀仏。因みに我が家の宗派は、浄土真宗本願寺派であります。だから我が文章にも、たびたび南無阿弥陀仏が飛び出して来るのであります。
因みに浄土真宗本願寺派は、戦国時代には戦国武将から怖れられていました。
そこで江戸幕府を開いた徳川家康は、浄土真宗を本願寺派と東大谷派の2つに二分しました。
大宗派を二分する事で、浄土真宗の影響力を割くことに成功したのでございます。