安倍一族

熊本藩の殿様は、細川家であります。

細川家と云えば、足利一門衆であり室町幕府管領職を歴任した。

また守護職にも、10ヵ国任命された名門中の名門である

しかし室町幕府管領職に任命されていたが、足利将軍家の力が弱まり管領職の力も共に衰退した。

室町幕府に任命された各地の守護職大名の力が弱まると同時に、守護職を補佐役である守護代の力が強まった。

この守護代の力が強くなった要因は、各地の守護職大名が京都のど真ん中で西と東に分かれて合戦した事であった。

この合戦は、12年間もダラダラと継続された。

各地の庶民は、守護職大名よりも身近に接している守護代の云う事に従うようになった

守護職大名が、自分自身の領地に帰還しようとすると家臣筋である守護代が領地入りを拒否した!


仕方なく守護職大名たちは、京都に舞い戻り京都にある屋敷に身を置いた。

京都には各地の守護職大名の屋敷があった。

日本国には66ヵ国の国が存在した。

この守護職大名たちは、足利将軍家から宮に屋敷を造設する事を求められた。

この屋敷造設は、壱岐の国や対馬国守護職大名にとっては相当の負担だった。

しかし細川家は、室町幕府守護職大名であると同時に管領職である。

細川家当主は、当然の事ではあるが領地には殆どいなかった。

だから守護代の力が増強されて、10ヵ国の守護職大名でありながら全ての国に入る事が出来なかった。

足利将軍家は家臣筋に暗殺される。

室町幕府将軍家の権威は無くなり、管領職細川家の人々も浪人生の身分に落魄れた。


そして兵乱の時代となり織田上総介信長や豊臣秀吉徳川家康の3人がバトンリレーのようにして政治を支配した。


細川家の人々も、時代の時流に乗る事に成功した。

その恩賞が肥後国52万石の国主に収まってしまった。

10万石クラスの大名から52万石の大名に昇進した結果家臣筋の募集を開始した。

その結果元々の家臣筋の家柄と、新規参入組の家柄の人々の対立が起きた。

この新規参入組の筆頭各が、阿部一族だった。

在る年に新規参入組を採用した殿様が病気で無くなってしまった。

しかし江戸幕府は、殿様の跡おい自殺を禁止した。


阿部一族は、幕府の命令に従い切腹を躊躇していた。


ところが古参の家臣筋は、何と13歳や14歳や殿様が可愛がっていた犬まで死んてしまった。


細川家家臣筋は、阿部一族の人々を陰で避難するようになった。


阿部一族の当主は、武人の恥だと云って一族の前で腹を切り裂いた。


阿部一族には百人ほどの一門衆がいた。


そして屋敷を城に見立てて、細川家52万石を相手に合戦した。


阿部一族の人々は、あの細川家客将である宮本武蔵から二刀流の免許皆伝の称号を受けるほどの剣の達人だった。

百人の軍勢で、細川家の軍勢を屋敷から1日死守したのであった。