八幡太郎義家と云えば、清和天皇の子孫であり臣籍降下により源氏の姓を賜って皇籍を離脱した。
清和天皇は、他の貴族たちとは違い相撲や競馬や武家事が好きな天皇であった。
この武芸好きな天皇の子孫である源氏が、武芸に秀でた一族でないわけがない。
八幡太郎義家も、弓の名人であり人より人差し指が長かった。
余りの練習量により、人差し指が長くなってしまった。
丁度プロテニスプレイヤーが、練習量のやり過ぎにより手が延びたりする。
八幡太郎義家の武勇は、宮の貴族たちの間では知らない者はなかった。
そんな時に陸奥守から、京都の摂政関白殿下に早馬が来た。
陸奥で威勢を張る阿部一族が、朝廷に収める税金を滞納していると云う連絡だった。
摂政関白殿下は、早速に源義家を屋敷に呼んだ。
しかし平氏には武勇に優れた武将がいなかった。
源義家は、直ぐ様に摂政関白殿下の命令を了承した。
現在の陸奥守は、貴族階級の人であり反乱軍を鎮圧出来る器量などなかった。
源義家は、父親の源頼義と一家一門衆と郎党を引き連れて京都から東北地方に向った。
その道のりで途中途中で、武士団や米などを徴収した。
源義家は、朝廷から人や米などの徴収権を獲得していた。
特に東国の武士団の徴収には熱心であった。
相模国鎌倉では、防御力に優れた地域だと云って鎌倉を摂取してしまった。
此れ以降は、鎌倉は源氏の本拠地とされた。
その軍勢の総数は、5万騎に膨れ上がった。
一方反乱軍の阿部一族の総数は2万騎である。
軍勢の総数では、源義家軍が優勢である。
しかし東北地方は、寒く雪⛄深い地域であり宮育ちの源義家軍には地の利の面で不利だった。
一方反乱軍の阿部一族は、地元での合戦であり有利な条件で進めていた。
源義家軍は、良い対策もなく合戦は12年もの長い時間が経過していた。
しかし源義家に付き従っていた関東各地の武士団は不満はありながらも依然付き従った。
其れから1年間で阿部一族を滅ぼす事が出来た。
戦勝の要因は、出羽国の有力者である清原氏が源氏に味方したからだった。
源義家は、意気揚々と戦勝軍の大将として宮に凱旋した。
其れから朝廷に戦勝報告をした
源義家は、官職も官位も領地も数多頂けるものだと思っていた
ところが官位も領地も官職もなかった。
源義家は落胆した。
自分自身に付き従ってくれた関東各地の武士団に与える領地がないからだ。
そこで源義家は、自分自身の領地を切割りして関東武士団に与えた。
この総大将こそが、我ら武家の棟梁であるぞ。
今後源氏に危機がある時には、真っ先に源氏の陣に馳せ参じると子孫に対する遺言にした。