あの大帝國モンゴル軍20万の軍勢が、日本国に対して国を開くようにと求めて来た!
鎌倉幕府将軍家は、天皇家の親王殿下が京都から下り便宜上総大将に就任していた。
この総大将を支える立場の家が北条家の人々であった。
北条家の中でも、特に血筋が良い得宗家の人々が権力を掌握していた。
モンゴル軍が日本国に攻め込んで来た時の執権職が、若干18歳の北条時宗と云う若殿であった。
北条時宗は、モンゴル軍から来た使者を鎌倉で斬り殺してしまった。
北条時宗は、モンゴル皇帝からの文書に日本国を攻め滅ぼすと云う一文があった。
北条時宗は若殿であり、我武者羅であり律儀な大将であった。
早速に対馬国の守護職に命令して、壱岐国の守護職と協力してモンゴル軍に備えるように命じた。
この二人は、壱岐と対馬と云う島でありながら島の境界線を巡り合戦中であった。
境界線争いは、一時的に休戦してモンゴル軍に備えた。
この両軍合わせても、160騎に過ぎなかった。
北条時宗は、九州地方の守護職大名や地頭職にも博多湾に集合するようにと命じた。
また四国や中国地方の御家人にも、博多湾に集合するように命じた。
また鎌倉からは、自らの舎弟を総大将に、足利家や安達家や三浦介や宇都宮家などの有力大名を博多湾に派遣した。
そしてモンゴル軍20万の軍勢が、まずは対馬国に現れた。
本心は口👄が避けても云う事は出来ない!
そこで対馬国の住民たちを裏山に隠して、平氏一門衆と郎党総勢80騎で死に物狂いで合戦した。
そして総勢80騎ではあるが20万騎を対馬で二日間食い止めた。
一方壱岐国の守護職武藤氏は、壱岐国を外して博多湾に向うようにと祈っていた。
この武藤氏は、元々は貴族であり武人の気持ちが弱かった。
モンゴル軍は、対馬国を全滅させると、壱岐国ではなく博多湾を目指した。
日本国の武士団の結束力により最終的には、モンゴル軍を跳ね除けた。
対馬国の守護職平氏は、生き残った一門を大国である相模国の守護職に任命した。
一方何の活躍もなかった壱岐国の守護職武藤氏は、壱岐国の守護職を罷免して朝廷の官職である太宰府少弐に任命された。
詰まりは武藤氏は、貴族の身分に返り咲く事が出来た?