尾張大納言徳川宗春

徳川家康江戸幕府を開いた。

徳川家康は思慮深い性格である

そこで徳川家本家に男の跡継ぎが絶えた時の事を考えて、尾張紀伊と水戸に御三家を設けた

もし江戸幕府本家に男の子供が産まれなかった時には、御三家から将軍を出そうと考えた。

まずは家柄も良い尾張家から第一位の候補者を出す事。

尾張家は、朝廷から大納言の官職を拝命している。

大納言の官職は、5名の定員であり尾張大納言殿以外は生え抜きの貴族が独占した。

その下に権大納言の官職が存在する。

昔は権大納言の官職は存在していなかった。

ところが武家の出身者が、大納言の官職を浸食するようになったから権大納言の官職を創設して生え抜きの貴族が就任出来るようにした。

すると徳川幕府が、朝廷に難癖をつけて紀州徳川家権大納言に推薦して来た。

朝廷は抵抗したが、江戸幕府の経済力と軍事力に圧されて渋々紀州徳川家権大納言に就任させた。

すると徳川幕府は、水戸徳川家中納言の官職に推薦して来た

さすが朝廷でも中納言の官職には、生え抜きの公卿でなければ駄目と云った。

ところが摂政関白殿下に多額の金銭を供与して、まんまと中納言の官職を射止めた。

摂政関白殿下と云えば、天皇陛下を補佐する最高の官職である

この最高職摂政関白殿下が云う事には、道理が無くても従うしかなかった。

こうして徳川御三家は、大納言と権大納言中納言の要職を独占した。

しかし尾張徳川家徳川宗春は緊縮財政政策では無く、財政を吹かせて名古屋に遊郭まで造った。

尾張名古屋は財政的に逼迫した

ところが大将の徳川宗春は、家臣団に対して遊郭で歌え遊べと奨励した。

この徳川宗春の政策によって名古屋徳川家は、多額の借財を抱え込んだ。

しかし家臣団も遊郭での遊びを覚えた結果、武士としての本分を忘れてしまった。

尾張徳川の侍は、皆が合戦には弱く力仕事も全国で最下位の順位だった。


そこで人々は、尾張徳川家の侍たちを別名大根侍と云っては馬鹿にしていた。