源頼朝が、流し者と云う罪人の立場でありながら平家打倒の兵を挙げた。
東国伊豆国に居た源頼朝の元には、関東ハ州だけではなく東北地方の武士団も馳せ参じた。
その中に源氏の一門衆である下野国の武士足利家の一門衆も馳せ参じた。
また東北地方からは、伊達政宗の先祖も源頼朝の元に馳せ参じた。
源頼朝は、源氏一門衆である足利家の人々が馳せ参じた事を大いに喜んだ。
源頼朝は、足利家の人々を平家打倒の大将に任命した。
足利家の人々は大いに喜んだ。
足利家の軍勢は、3万騎に膨れ上がる。
しかし足利家の人々は、3万騎ほどの大軍勢の大将を請負った事はない。
そして平家打倒の軍勢が、琵琶湖の付近で相対した。
平家の人々は、船合戦が上手い武士団である。
そこで琵琶湖に大船を浮べて扇子を高く掲げて、源氏よ此方に来い来いと招いた。
平家としては、船合戦を行った事がない源氏の弱みを知っていたために源氏をからかった。
大将足利家の人々は、東国の陸地での合戦は得意である。
しかし平家に小馬鹿に扱われて船合戦は不得意だと云えるものではなかった。
そこで船合戦に突入する武士団を募集した。
その中に東北地方出身である伊達家や三浦介や千葉介などの武士団が応募に呼応した。
そして小船を琵琶湖で徴収した
船を徴収したまでは良かったが足利家の人々を初め、重い鎧兜を身に着けたままで船に乗り込んだ。
小船に鎧兜を身に着けた武士団が、大勢で乗り込んでしまったために沈没してしまった。
大将が沈没してしまったために源氏方の武士団たちは、出鼻をくじかてしまった。
源頼朝は、足利家の振る舞いを鎌倉で聴いた。
其れを聴いた源頼朝は、此れこそ武士の大将の鏡であると云って喜んだ。
武士と云う者は、足場が悪いから合戦には参加出来ませんと云えるものではない。