平敦盛

日本国の三代合戦には、関ヶ原合戦応仁の乱源平合戦があります。

応仁の乱は、室町幕府管領職細川家と四職家の山名宗全を総大将に担ぎ各地の守護大名が東西に分かれた合戦です。

また源平合戦では、武家の棟梁各の源氏と平家が日本国の武家を二分する合戦であります。

源氏方の武家として参加したのは、東日本の武士団。

一方平家方の武士団として参加したのは西日本を中心にした武士であります。

源平合戦では、源氏方が優勢であり一ノ谷合戦で平家方は手痛い大敗北に追い込まれてしまった。

平家方は水軍が強く、一ノ谷の沖に数多の大船を停泊させていた。

平家方の武士は、一ノ谷の合戦で敗北したために数多の武士が停泊していた船を目指して一斉に泳ぎ出した。

その中に錦織の鎧兜に身を纏い海上を悠々自適に泳いでいる武将がいた。

一ノ谷の海岸では、大将各の首を討ち取りたいものだとして探し回る源氏方の武士がいた。

その一人が熊谷二郎直実と云う武士がいた。

熊谷二郎直実は、船に向かって泳いで行く高貴な武将を見つけた。

そこで扇子を振って戻って来い戻って来いと招いた。

すると錦織の鎧兜を身に着けた高貴な武将が、何を考えたのか海岸目指して引き返して来た。

熊谷二郎直実は、良い手柄の武将の首を取ろうと平家の武将に合戦を仕掛けた。

するとまだ若い武者であった。其れも今回の合戦に一緒に参加していた息子と同じ年頃の若武者である。

熊谷二郎直実は、この若武者を助けて挙げたいと思った。

そこで名前を教えて下さいと云った。

すると若武者は云う。お前のような田舎武者には名乗るまいぞ。

名乗らないとしても、首実験があればお前のような田舎武者にとっては良い手柄になろうよと云った。

普通の並々の武将ならば、助けて下さいと命乞いをする。

ところが平家の若武者は、命乞いをするどころか反対には反抗して来た。

熊谷二郎直実は思う。平家方の武将は、武家でありながら公家
集団になり果てたと思っていた。

しかし若武者でありながら、勇気があり東国の武士団に勝るとも劣らない武将がいると感動して震えが止まらなかった。