之よりしてぞ平家の子孫は絶えにけり

平家物語と云えば、軍記物語の大作。

日本国に数多の合戦記が存在しても、太平記平家物語が合戦物語の双璧。

平家一門衆は、伊勢平氏と貴族たちから番犬のような扱いを受けていた。

それは平家だけでは無く、源氏や武家になった藤原家の人々も同じだった。

源氏は平治の乱では、源氏の棟梁源義朝は、後白河天皇方の武士として参戦した。

しかし源義朝の父親は、数多の武勇に優れた息子たちを引き連れて崇徳上皇陛下方の武士として参戦した。

一方平家の棟梁平清盛は、一門衆の大半を引き連れて後白河天皇方の武士として参戦した。

しかし平家方でも平清盛の叔父が、一人崇徳上皇陛下方の武士として参戦した。

これらの武士たちは、後白河天皇崇徳上皇に呼ばれるままに番犬のように味方するしかなかった。

その結果源氏は、父親と子供たちが違う軍勢として一家一門衆が敵として闘う事になった。

その点では、平家一門衆は平清盛の叔父以外は一弾の固まりとして団結して参戦した。

結果は後白河天皇方の勝利で終った。

源氏は源義朝が、父親の源為義や自分自身の兄弟たちや一族郎党を斬首する事になった。

一方平家方では叔父平忠正だけが、敗者崇徳上皇陛下方として参戦したので被害者は最小限に抑え込む事となった。

その結果平家方は平清盛を筆頭各に、兄弟縁者一家一門衆皆が生き残る事が出来た。

それに対して源氏方では、嫡男源義朝だけが勢力を保つかたちとなった。

そして平治の乱が勃発すると源義朝方は、少ない手勢で平家方の屋敷を夜討した。

しかし多勢に無勢。源氏総敗北の結果、嫡男源義朝は騙し討に遭う。

それも京都脱出には成功したが、元々の家臣筋で尾張国知多半島の豪族に風呂場で暗殺されてしまった。

そして血筋が良い三男の源頼朝は、平家方に捕らわれて伊豆国に流し者となった。

この源頼朝の監視役に指名されたのが、北条時政であった。

源頼朝は、三十八歳の頃関東の武士団を唆して平家方を攻め立てた。

この決断力が功を奏して、平家一門衆を壇ノ浦の戦いで打ち滅ぼした。

そして最後に平清盛の嫡男平重盛の孫で、6代御前と云う男の子が生き残った。

しかし鎌倉幕府は云う。6代御前と云うのは、平家の嫡孫である。

命を生かすと何時、源氏方を攻め滅ぼすかわからない。

そこで鎌倉で処刑された。之よりしてぞ平家の子孫は絶えにけりと誰かが云った。