源平合戦

右京大夫頼朝が、伊豆国で謀反の旗揚げをした。

源頼朝に付き従った武士は、北条氏百騎と相模国の三浦介と下総国の千葉氏位だった。

三浦介の軍勢が1千騎で千葉氏が2千騎程であった。

東国で反平家の狼煙が揚った事をきっかけに、宮に近い機内地域の武士団も反平家の狼煙を揚げた。

平清盛は、早速奈良に軍勢一万騎を送った。

平家の大将には、勇猛果敢で名を馳せている平繁平を送った。

その平家の軍勢には、関東地方の武士団も参加していた。

関東地方の武士団たちを率いていたのが、藤原秀郷流であり名門である足利又太郎と云う武士であった。

奈良と京都の堺には、宇治川と云う大河が流れていた。

時は三月であり、山の雪解け水が宇治川を増水させていた。

平家の侍大将が、御大将に進言した。

今は雪解け水で増水しています。

そこで安全策をとり、下流に迂回するほうが良いのではありませんかと云った。

その話を聴いていた関東地方の武士団たちは云った。

我々関東地方には、坂東太郎と云う利根川が通っています。利根川と比較すれば、宇治川は小さい川にしか想いません。


ある合戦で我が足利家は、新田入道に船⛵の調達を頼まれました。

ところが川向うの敵方に船を盗まれてしまいました。

そこで足利又太郎は、大演説を催した。

人から頼み事をされて、船⛵を盗まれましたとは云得るものではないぞ。

利根川が大河であろうとも、武士が頼まれて渡れませんでしたと云えるものではないぞ。

死ねば死ね渡せや渡せやと撃を飛ばして一騎も流される事も無く渡りきりました。

その撃を飛ばしてたのが、この足利又太郎若干18歳の私でコマざいます。と云うと関東の武士団を率いて、宇治川を渡ってしまった。

これを見ていた平家の御大将も、渡せや渡せやと云って皆を渡した。

平家方の侍大将は向ける顔も無く、侍大将を他の武士に渡した。