令和4年1月22日の事【1】

足利治部太夫尊氏は、鎌倉幕府を討伐する為に美しい神様のような存在の後醍醐天皇陛下に味方したのでございます。

足利家は、源氏の嫡流家でございます。

また鎌倉幕府の筆頭御家人として、鎌倉幕府執権職北条相模守高時も足利家を軽んじる事は出来なかったのでございます。

しかし畿内地区では、楠正成と云う一様は鎌倉幕府御家人クラスの人ではございます。

ところが鎌倉幕府執権職北条家の政治活動が、御家人たちの生活を圧迫していたのでございます。

そこで畿内地区の御家人たちは運送組合を組織して、自分自身で稼ぐ力を身に付けていたのでございます。

ところが鎌倉幕府は、何と個人的な商売に対してまで税金徴収を求めて来たのでございます。

この鎌倉幕府の悪政に対して謀反を企てたのが、運送組合の組合長楠正成と云う武将でございます。

楠正成は、後醍醐天皇陛下の下で鎌倉幕府討伐の軍勢を催したのでございます。

楠正成の軍勢は、精鋭部隊百騎馬余りではございますが運送業で鍛え上げた肉体と地の利を活かしたゲリラ戦により鎌倉幕府軍を悩まさていたのでございます。

そして武家の棟梁各足利治部太夫尊氏が、何と鎌倉幕府軍五万騎馬の軍勢を従えて、楠正成の討伐に向かっていたのでございます。

ところが足利治部太夫尊氏は、足利家の一門衆が守護職を拝命している三河國で五万騎馬の軍勢を前にして大演説を打つのでございます。

この足利治部太夫尊氏に従っていた軍勢は、何と皆が源氏系統の武者でございました。

執権職北条家執事職長崎氏は、楠正成の討伐には源氏系統を送り付け我々平氏筋の力を温存しょうと考えたのでございます。

しかし今回は、執事職長崎氏の策略が裏目に出たのでございます。

足利治部太夫尊氏は、演説の中で我々は皆源氏系統でございますぞ。

しかし鎌倉幕府は、平家筋の北条殿が悪政を敷いている。

そこで我々の軍勢は、楠正成殿では無く京都六波羅探題を討伐したいと考える旨の大演説をしたのでございます。

五万騎馬の軍勢からは、一斉に拍手喝采が湧き上がったのでございます。

その後足利治部太夫尊氏の軍勢五万騎馬は、何と1日で京都六波羅探題を討伐したのでございます。

しかし足利治部太夫尊氏は、後醍醐天皇陛下と対立したのでございます。

また足利治部太夫尊氏の家臣筋の中でも、足利家執事職高家と足利治部太夫尊氏の舎弟足利直義と足利一門衆との対立が表面化したのでございます。

足利家執事職高家を支持した武将は、新興勢力の武将であり武闘派の武将でございます。

一方で足利治部太夫尊氏の舎弟足利直義を支持した武将は、皆足利家一門衆でございます。

高家足利直義の合戦が勃発すると、高家方の圧勝で終了したのでございます。

足利直義を支持した足利一門衆は、武家貴族階級であり合戦に弱かったのでございます。

一方で高家を支持した武将連中は、合戦上手ばかりであり毒殺あり闇討ちあり何でもありで勝てば良いと考える人たちでございます。

令和4年1月21日の事【3】

私自身は、歴史の時代では室町時代鎌倉時代&戦国時代が大好きでございます。

その中で関ヶ原の戦い石田三成方に味方して、20年間20万石の大名から素浪人の身分となった人物が存在するのでございます。

その後何と同じ旧領地柳川藩主に返り咲いた立花宗茂と云う武将が存在するのでございます。

立花宗茂は、絶対に主君筋を裏切る事をしない武将でございます。

立花宗茂の主君筋は、あのバテレン好きな大名であり鎌倉時代からの名門大友家でございます

大友宗麟の代になり一時的に勢いがございました。

しかし薩摩隼人の島津家が、大友家の領地に侵入して来たのでございます。

大友家の家臣筋の中では、大友家を見限り島津家に寝返る武将が続出したのでございます。

しかし立花宗茂と父親高橋紹運親子は、弱目の大友家を見捨てる事を潔しとはしなかったのでございます。

そして豊臣秀吉の九州地区入りによりて、島津家の勢いを軽減され大友家の倒産は辛うじて免れる事になったのでございます

豊臣秀吉は、律儀な立花宗茂をたいそう気に入り柳川20万石の大名に抜擢したのでございます。

立花宗茂は、あの徳川家康にも好かれ仲良く付き合っていたのでございます。

徳川家康は、関ヶ原の戦いでは当然の事立花宗茂は味方すると思い込んでいたのでございます

しかし立花宗茂は、自分自身を20万石の大名に取立てくれた故人豊臣秀吉に恩義を感じていたのでございます。

そこで石田三成方の西軍の武将として参陣したのでございます

同じ頃に、直江兼続と云う上杉家執事職は愛の前立を兜に付けて戦場を走り回っていたのでございます。

愛は、愛染明王&妻えのアピールだったのでございます。

立花宗茂の家臣筋は、豊臣秀吉の命令により朝鮮半島に乗り込んだ時に加藤清正が殺され掛かった時に立花宗茂が助けたのでございます。

加藤清正は、この時の恩義を返す積りで立花宗茂の家臣筋を全部受け入れたのでございます。

そして立花宗茂は、大名から素浪人の身分になった後にも腐る事無く教養を身に付けていたのでございます。

そして遂には、20年間の歳月を経て旧領地の柳川藩の藩主に返り咲いたのでございます。

そして加藤清正の家臣筋として暮らしていた旧立花宗茂の家臣筋は加藤清正に解雇してくれるように懇願したのでございます

加藤清正は、快く立花宗茂の家臣筋のお願い事を受け入れたのでございます。

その後も加藤清正家と立花宗茂は親しく付き合ったのでございます。

ところが加藤清正熊本藩は改易と云う憂き目に遭遇したのでございます。

その時加藤清正熊本藩の家臣筋を、当然のように立花宗茂は全員受け入れたのでございます。


私自身も、化け猫騒動の子孫では無く立花宗茂の子孫が良かったと思うのでございます。

令和4年21日の事【2】

今日は千葉県千葉市政令指定都市人口百万人の大都市】は、昼間の気温が三℃でございます

こんな寒い中に、入酸素運動は九州地区出身者の私自身は無理でございます。

しかし筋肉トレーニング&体操は80%は実行したのでございます。

我が愛車の中で、3キログラムのダンベルの上下運動二百回は実行済でございます。

我が先祖の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実行済でございます

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

また法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の急上昇気流に乗る事は間違い無しでございます。

源平合戦に源氏方の武将として参加した平山李重と云う人物がいたのでございます。

現在の東京都日野市平山辺りを領地に持つ武蔵國の地主階級でございます。

因みに私自身は、10年前に東京都日野市平山辺りのアパートに住んでいたのでございます。

東京都日野市平山辺りは、本当に住み辛い街でございました。

何の特徴も無く、面白くも無い街でございます。

平山李重は、平治の乱や保元ノ合戦に参加して巧妙手柄を数多立てた歴戦の有志でございます

今回の源平合戦でも、先駆けのでは手柄を立てて源頼朝から数多の領地を頂きたいと考えていたのでございます。

平山李重は、坂東地区の中では少大名に属する位置の武者でございます。

そこで単独行動により、第1の手柄を立てたいと思っていたのでございます。

手柄には大きく分けて、有力武将の首を摂る事が1つでございます。

また敵陣に向かって最初に討ち入って行くなどの方法がございます。

平山李重は、先駆けする事で手柄を立てて領地を頂く事を考えていたのでございます。

しかし先駆けするのは、まだ味方の軍勢が存在していない中で1人敵陣に殴り込みを掛ける事でございます。

そこで先駆けすると第1の手柄としてのポイントは絶大でございます。

一方で敵将の首を摂る事も、大将各の武将と合戦するのは2分の1の確率で自分自身の首🐴を取らる可能性が存在するのでございます。

大将各の敵将は、やはり勇者でございます。

幾ら源氏方の敵将が合戦上手とは云え、平氏の武将もエチケットは守りつつ武士階級でございます。

やはり源氏の武士と同様に強いのでございます。

平山李重は、1人の家臣筋を従えて二人で敵陣に殴り込みをしたのでございます。

すると平山李重が、ふと考えたのでございます。

あの熊谷二郎直実も、固まりでの合戦を嫌うはずだと云って家臣筋を熊谷二郎直実の元に探らせたのでございます。

すると思いは的中したのでございます。

熊谷二郎直実も、先駆けの支度をしていたのでございます。

平山李重は、早速に主従二人で敵陣に殴り込みをしたのでございます。

平氏の武士団は云ったのでございます。

東武者と云うのは、気性が荒いと聴いた。

しかし我が何万の軍勢の陣に二人で殴り込みに来るとは坂東武者は怖い存在だと笑ったのでございます。

しかし平氏の武士団の笑いにはおかしいので笑ったのでは無く勇気を認めた上での笑いでございます。

平氏の武士団は云ったのでございます。

二人だけであり合戦を催す状況では無いので少し可愛がってやれと云ったのでございます。

すると熊谷二郎直実は、既に敵陣に息子と二人で斬り込んでいたのでございます。

そこで平氏方の歴戦の勇士平上総守忠清が、相手になると云って合戦の支度をしていたのでございます。

ところが熊谷二郎直実親子の気合に圧倒されて、引き返して来たのでございます。

あのような無鉄砲な輩と勝負しても仕方無いぞ。

この先に大切な合戦場が控えていると言い訳を云いながら戻って来たのでございます。

この行動に対しては、平氏方からも批判が殺到したのでございます。

令和4年21日の事【1】

鎌倉幕府が創設して以来の最大級の国難が、日本国を襲ったのでございます。

その最大級の国難とはか、大陸に発生した元と云う王朝が我が日の本に対して交易を要請して来た事でございます。

しかし交易を求めて来た文章の中には、我が国を恫喝するような脅し文句が入っていたのでございます。

先ずは元からの使者は、京都の朝廷に皇帝陛下からの親書を持ち込んで来たのでございます。

公卿が集まり得意分野の公卿詮議【会議】を催したのでございます。

公卿集団の仕事は、文化活動が主たる業務範囲でございます。

そこで物騒な事柄は、殺人を生業にしている武家政権に丸投げする事を決めたのでございます

この時の鎌倉幕府の執権職は、北条時宗と云う武将でございます。

北条時宗は、産まれながらの武家を束ねる立場に育てられたのでございます。

歳は若干18歳の若武者でございます。

元からの使者を京都から鎌倉に呼び出して、北条時宗は何と元からの使者を斬り殺してしまったのでございます。

やはり坂東武者は、荒々しい側面を備えているのでございます

そして元からの使者を斬り殺した事が、皇帝の知る所となったのでございます。

元の皇帝は、またまた使者を日本国に送り込んで来たのでございます。

そして執権職北条時宗は、またも使者を斬り殺したのでございます。

元の皇帝は、憤慨し20万騎の軍勢を日本国制圧に送り込んで来たのでございます。

そして対馬國が最初のターゲットになったのでございます。

対馬國の守護職大名は、平氏流の武将でございます。

家臣筋は、たったの百騎程の軍勢でございます。

対馬國の農民は、後方に下げて平氏流の軍勢百騎で、20万騎の軍勢を3日間も食い止めたのでございます。

しかし多勢に無勢でございます

最終的には、対馬國の守護職大名の家臣筋は討ち死にしてしまったのでございます。

その勢いに乗り九州地区の博多湾まで攻め込んで来たのでございます。

ところが九州地区の武士団は、各地から続々と博多湾に集結したのでございます。

鎌倉幕府からも、執権職北条時宗の弟を大将に軍勢が参陣したのでございます。

しかし九州地区の地の利を理解している少弐殿が、今回の総大将に指名されたのでございます

こんな中で肥後國の地頭職で、竹崎李長と云う武将がいたのでございます。

この竹崎李長は、当時の分割相続の為に領地が0の状態でございました。

そこで親類縁者から借金をして鎧兜を調達して合戦に参加していたのでございます。

そして20万騎の軍勢の中に、家臣二人計三人で敵陣に斬り込んだのでございます。

竹崎李長主従三人は、1時間も敵陣の中で持ち堪えていたのでございます。

しかしもう無理と云う時に、百騎馬余りの武者が颯爽と竹崎李長を助けに馳せ参じたのでございます。

この百騎馬を率いる武将は、肥前國の住人で地頭職の白石左衛門尉と云う勇者でございます。

白石左衛門尉の機転の効いた現れ方により、島津家や我が先祖などの武将が20万騎の軍勢の中に斬り込んだのでございます

元の軍勢は、大陸各地からの寄せ集めの軍勢集団でございます

一方で我が国の武士団は、日本刀で斬り込む合戦する事を生業にしている軍事集団でございます。

最終的には、日本国の武士団優勢で合戦は終了したのでございます。

元の軍勢は、舟が存在する博多湾の沖に退いたのでございます

しかし日本国の武士団は、夜な夜な小舟で元の舟に乗り移り元の軍勢を日本刀で斬り殺して行ったのでございます。

そんな日本国の武士団優勢な時に、何と最大級の台風🌀が到来して元の舟は沈没したのでございます。

日本国の武士団は、強かったのでございます。

戦国時代にも、バテレン人が日本国を侵略する目的でキリスト教布教活動に来たのでございます。

ところが我が国では、戦国時代真っ最中でございます。

何と世界中の鉄砲の8割が日本国に存在したのでございます。

バテレン人は、本国に手紙を出しているのでございます。

日本国を侵略すると、絶対的に我々の国が敗北します。

日本国侵略は辞めるべきでございますと書いているのでございます。

令和4年1月20日の事【3】

戦国時代に安芸の国の守護職大名は、武田家でございます。

安芸の国の武田家も、元々は甲斐源氏系統でございます。

源頼朝は、源氏系統の中でも甲斐国の源氏には心を寄せていたのでございます。

そこで源頼朝は、甲斐源氏の人々に対して数カ國の守護職に指名したのでございます。

しかしながら安芸の国の隣国には、大大名の大内家や、佐々木家&山名家のような有力守護職大名が存在したのでございます

ところが室町時代に、各地の守護職大名が京都のマン真ん中で西と東に分かれて合戦したのでございます。

俗に云う応仁の乱でございます

当然の事ではございますが、有力守護職大名大内家&佐々木家&山名家の面々は京都まで出張って行ったのでございます。

そして守護職大名の留守番には守護代と云う武将が國の政治を司ったのでございます。

そして佐々木家の守護代尼子氏は、主君が京都まで出張って頑張っているのにつけ込み國事態を乗っ取ってしまったのでございます。

ところが安芸の国の地頭職クラスの毛利元就が出没すると、大内家を討伐し尼子家も討伐してしまったのでございます。

この尼子家の家臣筋で、主君筋に対して律儀な山中鹿之助と云う武将が毛利元就の首を付け狙ったのでございます。

当然の事ではございます。

山中鹿之助の目的は、尼子家再興&復興でございます。

山中鹿之助は、今の私自身の分身みたいな存在でございます。

山中鹿之助は、三日月🌙に向かって吠えたのでございます。

願わくば我に七難八苦を与える給えと。

私自身も、我が化け猫に向かって吠えているのでございます。

化け猫の力により、我が先祖の再興&復興をお願い申し上げますと云っているのでございます

令和4年1月20日の事【2】

歯痛の治療で千葉県九十九里浜海岸通りの歯科医に来ているのでございます。

やはり千葉県千葉市に移住したからと云って右も左も判り兼ねるのでございます。

そこで我が館の見聞を兼ねて、行き付けだった歯科医に来ているのでございます。

筋肉トレーニング&体操は完璧でございます。

3キログラムのダンベルの上下運動の二百回の実行したのでございます。

朝入酸素運動は、30分間の散歩でカバーしたのでございます

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経の実行でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が先祖の御家再興&復興間違い無しでございます。

まだ間に合いのでございます。

我が事業の成長間違い無しでございます。

武家貴族は、大きく分けて源氏系統と平氏系統と藤原氏系統に別れるのでございます。

源氏系統には、宇多天皇陛下や嵯峨天皇陛下の系統など各天皇陛下親王殿下の子孫が皇室を離れる祭に源氏の姓を賜って臣下に下るのでございます。

あの室町幕府を創設した足利治部太夫尊氏に、終生付き従った武将佐々木判官道誉は宇多天皇陛下の子孫であり宇多源氏系統でございます。

この佐々木判官道誉の先祖は、源頼朝の先祖の代から源氏系統の武者として働いたのでございます。

そこで源頼朝が父親源義朝平清盛との合戦では佐々木秀吉と云う武将は、源義朝を逃がす為に自ら身代りになり討死した武将でございます。

源頼朝が、伊豆國に流し者になった時にも討死した佐々木秀吉の息子たちは源頼朝に付き従い伊豆國で暮らしていたのでございます。

佐々木家の領地は、近江國でございます。

しかし主君筋源義朝が、平清盛との合戦に打ち負けたので近江國は比叡山延暦寺の領地になってしまったのでございます。

そして源平合戦に勝利した源頼朝は、伝来の家臣筋佐々木家の恩賞として何と10カ国の守護職に指名したのでございます。

また佐々木家の長男には、当然の事ではございますが近江國の守護職に指名したのでございます。

この源頼朝の沙汰に対して不満を述べたのが比叡山延暦寺でございます。

しかし源頼朝は、武家の棟梁各として家臣筋の地位や領地の保全する義務が存在したのでございます。

そこで源頼朝は、比叡山延暦寺の意向を退けて佐々木家を近江國の守護職に指名したのでございます。

この佐々木家の子孫に、足利治部太夫尊氏に終生付き従った武将が佐々木判官道誉と云う一級中の婆娑羅大名でございます。

他にも婆娑羅大名は存在したのでございます。

美濃源氏の多治見氏や同じ系統の土岐氏など、婆娑羅振りを堪能していたのでございます。

しかし多治見氏も土岐氏も共に婆娑羅振りが中途半端でございました。

そこで鎌倉幕府執権職北条家の執事職長崎氏に目を付けられてしまい討伐されてしまったのでございます。

一方で佐々木判官道誉は、鎌倉幕府の執事職長崎氏にも賄賂などを贈り付けて上手く対応していたのでございます。

そこで佐々木判官道誉は、鎌倉幕府の要職にも就任する。

また華道や茶道にも優れていた為に、貴族階級とも親しく付き合っていたのでございます。

要するに佐々木道誉は、婆娑羅大名でございます。

令和4年1月20日の事【1】

平将門の乱に呼応したように、西海では藤原澄友が兵乱を起こしたのでございます。

平将門は、桓武天皇陛下の親王殿下が官職に空席状況が無く平の姓を賜って天皇陛下の臣下に下り関東地区の上総國の介と云う階級の人として生きて行く決断をした家筋の人でございます

この人物が、平将門の叔父に当たる平國香と云う人でございます。

平國香の兄弟は五人存在したのでございます。

平将門の父親は、民人思いの優しい武将でございました。

官職は、鎮圧府将軍職を拝命して東北地区の反乱を鎮圧に数多出張していたのでございます。

ところが在る合戦に於いて、矢傷が元で還らぬ人となってしまったのでございます。

平将門は、幼い年齢で父親の領地を相続したのでございます。

そして叔父である平國香が、平将門の領地の管理人に就任して平将門が成人するまでの間の管理者に選任されたのでございます。

ところが叔父平國香は、平将門が幼い事に付け込んで将門の領地を自分自身の領地に登記をしてしまったのでございます。

平将門が成人すると、叔父たちが平将門が相続するはずの領地が半減した事を知ったのでございます。

結局は、平将門と叔父さんたちとの合戦は相続問題から端を発しているのでございます。

しかし平将門は、坂東武者の中でも1〜2を争う勇猛な武将でございます。

叔父さんたちが、数多の軍勢で攻め込んでも合戦では平将門側の連戦連勝でございます。

この平将門側の連戦連勝は、将門の武勇優れている事が理由ではございますが何と民人が自分自身の意思で平将門を助けていたのでございます。

一方で西海では、九州地区&四国地区&中国地区の税金が、何故か瀬戸内海で奪われて京都まで届かない事態に陥っていたのでございます。

伊予國に赴任していた大掾職を拝命していた藤原澄友が、伊予國の国司の命令に従い調査したのでございます。

瀬戸内海を縄張りにしている海賊集団が、夜な夜な徒党を汲み税金を積み込んだ舟から税金を奪取している模様である旨を報告したのでございます。

ところが伊予國の大掾職を拝命していた藤原澄友は、昼間は何食わぬ顔で役所の仕事をこなしていたのでございます。

ところが夜な夜な伊予國の大掾の仕事が終了すると、何と海賊集団の頭として税金の奪取を実行していたのでございます。

海賊集団の頭が、伊予國の大掾職を拝命していた藤原澄友なので役所の情報は海賊集団に筒抜けでございます。

幾ら伊予國の国府の軍勢が、海賊集団を討伐しようとしても逮捕出来る事が不可能でございます。

しかし平将門の反乱も討伐される。

また藤原澄友の反乱も、有能な国司の赴任によりて藤原澄友も逮捕されたのでございます。

藤原澄友は、れっきとした貴族でございます。

そこで藤原澄友は、肥前國に流罪と云う罪で終わったのでございます。

あの肥前國有馬家の先祖は、藤原澄友から家系図は始まっているのでございます。

一方で平将門の子孫は、福島県相馬市辺りの地主となり戦国武将相馬氏が平将門の子孫筋でございます。