甲斐源家

甲斐国の有力武将と云えば、甲斐国武田源氏と誰しも想い浮かびます。


鎌倉幕府からは、甲斐国守護職に任命される


また安芸の国の守護職阿波国守護職にも任命されました。



ところが甲斐国武田源氏は、元々の出身地は甲斐国ではなく常陸国が本拠地でございます。



先祖の源頼義と云う武将が、朝廷からの命令により東北地方の陸奥国で朝廷の命令に逆らう阿部氏を討伐するために派遣された。


この源頼義に付き従った息子たちが、源義家源義光兄弟であった。



源義光は、陸奥国に戦争物資を調達するために常陸国に野営を敷いて地元民から食料品や刀や馬などを調達した。


そして最終的には、常陸国の武士団を統率する事に成功した。


一方父親の源頼義と息子の源義家は、阿部軍の反撃にあい戦争を有利に進める事が出来なかった。



その間常陸国に常駐していた源義光は、財力と軍事力を有利に蓄える事が出来た。



父親と兄貴が、ようやく反乱軍の阿部一族を討伐する事に成功した。


ところが源義光は、合戦が終わったにも関わらず宮に帰る事を拒否した。


朝廷は大いに怒って、源義光甲斐国流罪に処した。


源義光は、流罪甲斐国に着任したが何と甲斐国の武士団たちを束ねて武士団の棟梁に居座ってしまった。


朝廷では、またまた源義光を日本国の果てに流罪にしようと思った。


しかし源義光の武勇が怖くて、甲斐国国司に任命してしまった。


犯罪者から地方長官に任命された人物は、源義光が最初でございます。

源義朝は朝廷の馬の監理人の隊長

鎌倉幕府を創設した源頼朝の父親は、朝廷から右馬守の官職を拝命していました。


朝廷では名馬も飼育していました。


また相撲取りも朝廷から官職を頂き、天皇陛下が観覧する相撲行事も行われました。


また名馬での競走も行われて、特に相撲行事も競馬行事も共に好きだった天皇陛下が源家の先祖清和天皇陛下でございます。


清和天皇陛下は、競馬行事や相撲行事が好きで好きでたまりませんでした。


しかし天皇陛下の職務も、熱心に行い公卿や寺社からも絶大な信用を与えられていました。


その清和天皇陛下の親王殿下が、源家の姓を賜り臣下の身になって地方長官である国司として赴任されました。


朝廷でも官職の空席が不足して、天皇家だけではなく摂政関白家や他の生え抜きの貴族の子弟も官職の空席待ちが続いていました。


そして源家の姓を頂き、摂津守として赴任されました。


その源家は、摂津国の多田荘に数多の領地を所有していたので多田満仲と云われていた。


そこで源家の事を多田源家🏠とも云っていた。



しかし源家は、武勇には優れてはいたが政治的なセンスに欠ける傾向がありました。


だから官職も進まず朝廷の馬屋の隊長を拝命していました。


朝廷の警備隊長としては、蔵人頭と云う公卿が任命される官職が最高の名誉会長でした。

我が先祖龍造寺氏

我が先祖は、系図上では藤原鎌足!藤原不比等父子から始まっています。


藤原家には4人の息子が存在しました。


北家!京家!式家!南家の4家であります。


この中で生え抜きの貴族を排出した家🏠は、藤原北家でございます。


あの栄華を満喫した藤原道長は、藤原北家であり藤原の氏の長者も世襲しました。


また藤原家氏寺の興福寺別当職も、藤原北家から排出しました。


一方我が先祖は、藤原南家出身であり本来的には藤原家では長男であり藤原家を背負って立つ立場になれる家柄である。


ところが世あたり下手であり、朝廷からも疎遠な扱いを受けてしまった。


その結果は、藤原家一門衆でありながら中央貴族として出世する事も出来ず地方の国司に任命されていた。


詰まりは地方長官であり、貴族の立場からすると京都から離れる事は流人のような心持ちであった。


しかし後々には、地方の国司職は金銭的な実入りが良く生え抜きの公卿さえも国司職に志願する変わり者もいた。


でも実際は、下級貴族や武家出身者が志願する官職であった。


ところが壱岐の国と対馬国国司職には、位の低い武家出身者でも赴任する事を断る不忠者も存在した。


我が先祖は、壱岐の国の国司職の次のクラスの役人であり壱岐介と云う官職を拝命していた。



藤原家南家であり、あの平将門を討伐に成功して従4位の貴族に就任する事になった藤原秀郷が先祖である。


また後白河法皇様の院の御所を警護する北面の武士である西行法師も、系図上では先祖であります。


西行法師は、平清盛と同僚であり平清盛北面の武士を一時的に拝命していた。



この藤原秀郷の子孫が何故に壱岐の国の国司介の立場で、田舎の国に赴任していたかは不明でございます。


その壱岐の国の国司介が、源頼朝鎌倉幕府を創設した時には九州の肥前国に地頭職を拝命していたのでございます。


不思議な事柄でございます。

今年のゴールデンウィーク

4月29日昭和🏯の日に、道の駅&温泉に一泊二日で出掛けて来ました。


一泊二日と云いながらホテル&旅館に一泊するのではなく、軽自動車のSUZUKIアルトで車中泊するのでございます。


道の駅は新しく出来たばかりであり、快適空間でございます。


しかし雨☔がザーザー降りであり、快適空間のトイレ🚻に行く事も出来ませんでした。


一様は小サイズの城🏯がありましたので、リーズナブルな金額の百円で天守閣に這い上がって来ました。


見晴らしは最高でございます。



今は寂しく山のカラスの声を聴いて過ごしています。


今日は憲法記念日であり、明日と明後日も祭日でございます。


また小サイズの旅行に行きたくなりました。


今度行くとしたら、やはりいわき湯本温泉に行きたいです。


海を観るのは気持が晴れ晴れします。


またいわき湯本温泉の泉質は、私好みの温泉♨でございます。


今回も軽自動車のSUZUKIアルトで車中泊して過ごしたいと想います。


やはりキャンピングカーを買いたいです。


キャンピングカーがマイハウス&仕事部屋&新婚生活の場所になれば良いです。


そのためにも稼ぐ稼ぐそして稼ぐしかございません。

お家時間は何しているの?

お家時間は何しているの?


当然の事ではありますが、ハテナブログの執筆中でございます。


昨日近くの道の駅の車中泊を経て我が家🏠に戻ってまいりました。


二日間車中泊して過ごしました。


一様はマイナス15℃まで耐え得る寝袋を買いました。


しかし車中泊する車🚙は、軽自動車のSUZUKIアルトでございます。


やはり軽自動車のSUZUKIアルトでは、足を伸ばして寝る事も出来ず寒い寒い想いをしてしまいました。


また今年も流行病のせいで、風邪気味では温泉にも入る事が出来ません。


一様はマイナス15℃に耐え得る寝袋を買いまし
たので、寒くはありませんでした。


しかし朝4時位には目が覚めてしまいました。


近くにヤマダ電機があったので、道の駅に軽自動車のSUZUKIアルトを置いて歩きでヤマダ電機まで向かいました。


途中トイレ🚻に行きたくなりました。


其れも大便の方でございます。


我慢しながら歩いていると、消防本部の建物がありました。


直ぐにトイレ🚻を借り受けて大便をしました。


やはり身体からカスを出す事により、スッキリした次第でございます。


ところがスマホで調べたヤマダ電機までは、9キロメートルもあり辿り着く事が出来ませんでした。


途中から引き返す事を決断して、ひたすら道の駅を目指しました。


しかし歩いた距離は、20キロメートルにもなりました。


歩いた時間は6時間にも達してしまいました。



その後は軽自動車のSUZUKIアルトの中で爆睡しました。


でも糖尿病患者のために、此れだけ疲れているにも関わらずおにぎり2個だけしか食べる事が出来ません。



其れから城🏯を観に行きまました。


有名な城🏯ではなかったから、観光客は私一人でございます。


観光料金は、何と100円ジャストフィットでありリーズナブルでございます。


其れから温泉♨に入り、家🏠に帰った時間は夜中2時を過ぎていました。


其れからワイン🍷を飲んで寝ました。


ワイン🍷は贅沢で飲んでいるのではなく、糖尿病患者に優しい成分が入っているからでございます。

兵乱の世の中

平安時代の末期、貴族社会の弊害が表面化して地方の有力者である武士階級が台頭してきた。


武士階級の人々は、殺傷力を用いて自分自身の領地を守り抜く事を生業としていた。


そして武士階級は、一族郎党がピラミッド型で構成されている。


一族郎党の一部の人々が、他人に領地を侵害された場合には一族郎党の集団で仕返しを実行する。


その結果として奪われた領地の回復を、血の繋がりの集団で回復する事で一族郎党の結束力を維持していた。


貴族階級は、武士階級を番犬のように扱い政治的に対立している人々を武士に命令して暗殺や闇討ちや毒殺した。


しかし実行犯である武士階級の人々は、貴族に命令されて暗殺したのに罪を取らされた。


時には、武士階級の人々は一族郎党で貴族の敵味方に分かれて合戦する事もあった。


父親が敵の陣営に番犬のように呼び出される。


一方息子たちは、相手方の貴族に番犬のように呼び出される。


武士階級は、仕方なく親子相別れて一族郎党間で合戦する事になる。


この貴族階級間の争いは、総て武士階級に行わせる。


ところが平忠盛と云う武士階級の人が登場する事で、だんだんと武士階級の人々が番犬のような扱いから抜け出す事になる。


そして平忠盛の嫡男である平清盛に至り、大政大臣従一位と云う最高の官職に指名された。


しかし平氏武家の棟梁であり、公卿集団の棟梁ではない。


平家は、武士階級でありながら公卿集団の仲間入りをしてしまった。


次第に諸国の武士階級の指示を失う事になる。



この平家の教訓を活かして、武家政権を打ち立てたのが、流人生活を飛び越して鎌倉幕府を開き征夷大将軍に指名された。


その結果各地に守護職と地頭職を設置して、朝廷から指名されている武力を背景として国司職を圧倒した。

山内一豊

山内一豊には、二人の忠義な武将が存在しました。


山内一豊家は、織田上総介信長の一族である家の家老職を拝命している由緒正しい家柄でございます。


ところが山内一豊家が奉職する織田家が、織田一族である織田上総介信長に討伐されてしまいました。


山内一豊家は、主君の跡おい自殺をしてしまいました。


家老職の家柄としては、当然の事柄でございます。


当然山内一豊も、家老職の嫡男として父君と共に自害して果てる予定でした。


ところが山内一豊に従う二人の家臣筋が、山内一豊に山内家再興を託し浪人生活を送りました


そして各地の武将の門前で、憎い仇である織田上総介信長を討伐する武将を探し求めました。



そんな時織田上総介信長に遭遇したのでございます。


仇に遭遇したので、主君山内一豊に付き従う二人の武将と織田上総介信長に勝負を求めました。


すると織田上総介信長のオーラの凄さに圧倒されてしまいました。


山内一豊は、潔く腹を斬る予定でした。


すると織田上総介信長は云う。


今腹を斬るのは、早いぞ。


私は天下統一する予定であるぞ。


私が天下統一を成し遂げた後でも、腹を斬る事は遅くはないであろうよと云った。


山内一豊は感動した。


やはり仇討ちに執念を剥き出しにしていた自分自身が間違っていた。


山内一豊家が奉職していた織田家は、討伐されて当然であったのであろうよと想った。



其れからは、織田上総介信長のために命懸けで働いた。


そして千代と云う才女に恵まれて、関ヶ原の戦いの後は外様大名24万石の国主様に収まってしまった。